ヒアアフター/英国王のスピーチ/トゥルーグリット

ヒアアフター:★★★
地震の前に公開されてよかったよかった。今見たら感想全然違うものになるよ。
80歳超えたイーストウッドが死を意識して作ったのかと思ったら、最初にこの脚本に興味を持ったのはスピルバーグだったそうな(キネ旬のインタビューより)。スピルバーグといえばもはや黒いほうのスピルバーグのイメージがパブリックイメージになりそうなぐらい常に死を意識的に映像化してきた人で、同じく死者の世界と現世の係わり合いを描いた「ラブリーボーン」の製作もしていることから、彼がこの脚本に興味持ったというのも納得である。やはり死に囚われてるのだろうか。
死んだらどうなるのか?という誰もが持つ疑問を3人の視点から描き、それが1本の道筋を作っていくというつくりなのだけど、そのいづれからもキリスト教的なにおいがしないのが面白いところ。この作品をまとめているのはキリスト教ではなく、むしろマット・デイモン演じる主人公が愛するディケンズである。ディケンズの生涯や作品を知っていると、この作品にぼんやりとしたイメージしか持てなかった人もきりりとした明確なイメージがつかめるのではないだろうか(例えばディケンズ列車事故で死にかけたというエピソードとかね)。
最近のイーストウッド映画に目立つ「救済」が今回もひとつのテーマとなっている。死に囚われた3人がどのように心の救済を得るか、それがこの映画の主眼。死に囚われた人間が生きることの喜びを得る第一歩をエンディングではやや誇張的に描いているけど、それは観客に対しての「今を大事にしろよ」というイースウッドからの力強いメッセージなのではないだろうか。


英国王のスピーチ:★★★☆
今年のオスカーの有力候補はこの作品と「ソーシャル・ネットワーク」だったわけだけど、きしくも「コミュニケーションの問題」という点でこの2作は共通項が多い。「ソーシャル・ネットワーク」は頭の回転が速すぎて人とのコミュニケーションがあまり上手にとれないタイプの人間だったのに対して、本作品では吃音症のために人とのコミュニケーションをとることを避けるジョージ6世が主人公である。「ソーシャル・ネットワーク」は最先端のコミュニケーションであるフェイスブックの創設をめぐる話であるのに対して、本作品は人間のコミュニケーションの最も原始的なスピーチ、あるいは会話をめぐる話である。ジョージ6世が吃音になった原因もコミュニケーションの問題によるところが多い。父親からの一方的・高圧的なコミュニケーション(左利きやX脚の強制といった抑圧も含まれる)による自信の喪失、兄とのディスコミュニケーション。親子の、あるいは兄弟の「会話」がもっと健全であったならば、ジョージ6世の吃音の問題というのはなかったんでないかな、と想像する。一方で彼とジェフリー・ラッシュ演じるオーストラリア人のカウンセラーのコミュニケーションは驚くほど健全だ。なにしろファーストネームで呼び合うところから始めてしまうのだから。形から入り、やがてお互いの間に信頼を築き、最後に吃音は克服される。これも健全なコミュニケーションがあったからこそ。
オスカー会員がこの作品を最も優れていると認めたのは、単にフェイスブックという最先端の技術が理解できなかった、などというつまらない理由ではなくて、コミュニケーションが最後までうまくとれない人間の歪んだ成功の物語よりも、健全なコミュニケーション(と精神)を取り戻していく一人の王様の姿を近しく感じたからではなかろうか。


トゥルーグリット:★★★
本編始まる前の予告(「カウボーイ&エイリアン」「スーパー8」「トランスフォーマー3」)が全部スピルバーグ製作で、本編もまたしかり。働きもんですな。
で、本作。神罰のない西部の街で法律の力を信じる少女の話だった。父親を殺された少女は何かあるたびに法律や弁護士の名前を引き合いに出すのだけど、最終的に物事に(というか復讐に)ケリをつけるのは暴力であるところが西部劇の論理か(その復讐自体が金を払って保安官を雇うという法律に基づいたものなのだけど)。
コーエン兄弟なのに非常に手堅い西部劇のつくりで、とっぴなところがほとんどなかったのが驚き(マタギの歯医者のくだりは変だったが)。こういうオーソドックスな作品も撮れるのね、というのが正直なところで、それ以外は淡々としていて驚きはなかった一本。