『涼宮ハルヒの消失』はオタクであるあなたと私のための物語

(本編のネタバレを含んでいますので未見者は要注意)



涼宮ハルヒと一緒にいると未来人や宇宙生命体や超能力者の仲間と一緒にとんでもないトラブルに巻き込まれる。広大な砂漠にワープさせられたり同級生に殺されかけたり、いつまでも終わらない夏休みを繰り返したり。でもそんな毎日をお前は楽しんでなったか?

と、キョンは自問する(記憶力はあまり良くないので2週間前に見た内容の大意である)。そして自答える。「あたりまえだ。楽しかった。だからあのハルヒが中心の世界に戻りたい」と。

我々オタク的性質をもった人間、例えば自分の場合は映画が好きすぎて良好な人間関係を築く方向にエネルギーを注いでこなかったり勉強をおろそかにしてきたりしたのだけれど、そういった人種に対して、外世界の人(リア充な人とも換言できるかもしれない)は「もっと役に立つことに時間を使ったら?」とか「なんでそんなに好きになれるの?」とわりとフランクにストレートな疑問を提示してくる。実際「映画に費やす時間勉強しっかりしてたらもっといい大学に行けたんだよなぁ」とか「その興味を異性に注げば30にもなって恋人がいたこともない人生を歩まなかったかもしれないんだよなぁ」と思わないこともないのである。だけれでも、その問いに対して断固として「そんなのは愚問。だって楽しいんだから」と答えれてしまうのがオタクである所以であるわけではないか、と思う次第。

神的存在のハルヒのいない世界とは、実際にはありそうもない話で満ち溢れた映画やSFや漫画やアニメとは隔絶された時間。そういったものには振り回されないリア充の世界のメタファーである。それが証拠にまるで理想的な文系少女がキョンに対して恋心に近い感情を持っている。そしてこの世界にはハルヒに振り回されるわずらわしさがない。でもそれをキョンはそれを否定する。ハルヒのいる世界が楽しかった、だからそこに戻りたい、と。それはオタクのレゾンテールの肯定を意味している。オタク的物欲に振り回される世界にとどまっていいじゃないか。だって楽しいんだもん。実際楽しんできたでしょ!今更後戻りはできないじゃない。

この映画がオタクと呼ばれる人(自分を含む)に愛されるのは、物語の面白さ以上に、自分の生き方をクライマックスで肯定してくれるからではないだろうか。そしてこの作品がライトノベルが原作であるというところがますますオタク(とSF好き)の自己肯定を強める要素になっていると思う。なぜなら両者は純文学と自然主義文学(イギリス文学の自然主義よ)からは異端とされるからだ。

「それは楽しい時間なんだから、そこにとどまっていいじゃない」オタク側からのある種の開き直りともとれるが、作品がその開き直りをしているところにメタ的なものを感じなくもない。原作者はどこまでこの構造を意図してたのだろうか(少なくともキョンの自問自答のシーンの脚色の仕方から、これはアニメ制作者側からのメッセージなのではないかと考えるが)。

自分が今の自分でいていいという安心感を与えてくれる作品ということで★★★★の評価である!
しかし時間はめぐるものである。十数年前には「オタクなんてやめちまえ!」という冷や水エヴァ劇場版で同じオタクたちはぶっかけられたわけだから。