コララインとボタンの魔女/パーシー・ジャクソンとオリンポスの神々

コララインとボタンの魔女(3D吹替):★★★☆
「目は心の窓」といいますが、その窓たる目をボタンで綴じて、自分の世界に子供たちを閉じ込めようとする魔女と、それに立ち向かう女の子の話であります。おいしい食事ややさしく見える家族の姿で子供たちを誘惑して、相手の心(の窓)をボタンで閉じたあげく、一方的な愛情を求める姿は、ある種自己中心的なDVの姿といえましょうか。子供だけでなく、大人も(いや、大人「が」)楽しめるダークファンタジーでありました。
甘い思い通りの想像と虚構の世界(でも痛いしっぺ返しがある)と厳しい現実世界(でも社会とつながってる)の二項対立の話でもあり、半ニートだった自分には身につまされるものもありました。
パペテーションに関しては『ナイトメア・ビフォア・クリスマス』の頃とは比較にならないくらいに進歩しちゃって、もはやCGみたいという逆転現象が起きてます。ちょうどバートンが『マーズ・アタック!』で火星人をパペテーションみたいなCGで再現したのと逆のような状況ですな。


パーシー・ジャクソンとオリンポスの神々:★★
つまらない映画をつまらないということほどつまらないことはないので、別のことを書く。原作は作者である父親が難読症ADHDに悩む息子のために書いたファンタジー小説であるという広告を観たのだけれど、それが頭に合ったせいで鑑賞中ずっと別のことを考えていたのだった。
主人公はその息子と同じくADHD気味で難読症のさえない少年。ところが話が始まってすぐにその障害はギリシア神話のポセイドンの息子であるがためにもっていた天性の素質だということが判明する。ADHDに見えるのはヘラクレスのような闘争本能の表れであり、難読症ギリシア語がよめることに由来するものなのだ。さて、その友人はこれまた障害者で杖がないと歩けないのだが、実はこれも正体がギリシア神話の牧神で、下半身が獣なのを隠すためのカモフラージュだったのだ。さらに!パーシーの歴史の先生は車いすが必要な重度障害者なのだが、これまたケンタウルスの身である正体を隠すための障害者の振りなのだった。
ことさらさように障害と神話的な力が結び付いた話なのだけど、ここから得られる作者の意図は十中八九の人が同じ結論に至るであろうことである。それは「今あなたは障害に苦しんでいるかもしれないけれど、それは神からの賜りもの(gift)かもしれないのですよ」というメッセージだ。つまり父親である作家はファンタジーで息子を励まそうとしたわけですな。
でもこれってファンタジーへの現実逃避でしかないのではないか?と思うわけで。例えば第一次大戦中にイギリスではファンタジーが流行ったそうだけど(バリの『ピーターパン』なんか好例。この辺のことを書いたChildren's Bookという本がニューズウィークでレビューされてた)、つらい状況にある人間にとってファンタジーというのは一番安易な逃げ道なんですな。でも、父親として本当にしてやるべきことというのは、その障害とどう向き合って、社会に立ち向かっていくべきかというプラクティカルなことじゃないかな、と思うのだ。というわけでこの作者と対称をなす例として『テラビシアにかける橋』の作者のキャスリン・パターソンをあげておきたい次第。
映画としてはクリス・コロンバスの作品なのでまたしても「機能不全の親子関係」がテーマになっているところに注目すべき(これは師匠であるスピルバーグのテーマでもある)なのだけど、そーいう話する以前に映画の出来が悪すぎるよ。だいたいなんだってギリシアの神様がアメリカまで移住してるかね。地獄もアメリカの下にあるし。パクス・アメリカーナすぎない?
ショーン・ビーンピアース・ブロスナンの元006と元007のスクリーン上での共演はなし。チェッ。