ダークナイト(2回目)

ダークナイト(The Dark Knight)
★★★★★
監督:クリストファー・ノーラン
脚本:クリストファー・ノーラン, ジョナサン・ノーラン
音楽:ハンス・ジマージェームズ・ニュートン・ハワード
出演:クリスチャン・ベール, マイケル・ケイン, ヒース・レジャー, ア−ロン・エッカート, ゲイリー・オールドマン, モーガン・フリーマン, マギー・ギレンホール

あまりに素晴らしすぎて1回目の鑑賞では何を書いたらいいものか分からなかったので、もう一度見ての感想。

世界が燃えるのを見て喜ぶ男と、その火を必死で消して回る男の二項対立の物語。2人とも素顔を隠し、天才的な頭脳を持っているが、片方はそのマスクの下に絶対的倫理を信じる心があり、ゴッサムの市民を信頼し、守るに値するものと確信している。だから自分の対立項であるジョーカーを捕らえることはできても、殺すことができない。その道は自らが信じる倫理の一線を越えてしまうから。
方やもう一人はそのピエロ的メイクとは裏腹に狂気を演じている天才で、倫理などというものは怒りや憎しみを自分の生み出すカオスの力の一押しでまっさかさまに突き落とすことができると信じ、市民の本性が悪だと確信している。2人の存在はハービー・デントが持つコインのように輝ける表と、焼け爛れた裏側で表裏一体になっている。そして両面が輝ける表であったハービーがジョーカーの一押しで焼け爛れた片面に陥ったとき物語は悲劇の度合いを増し、孤高の戦士としてのバットマンの戦いが始まるラストに導かれていく。
光の騎士という正義の存在<ハービー・デント>を、仮にそれがまやかしであっても希望として存在しているのだと市民に信じさせるためにバットマンは闇の騎士<ダークナイト>として戦い続ける。<ダークナイト>は「闇夜に戦う騎士」などという単純な意味ではなく、光の騎士=正義を世に具現化するために存在しなければならないコインの裏側としての存在という意味なのだ、という映画独自の解釈をした素晴らしいタイトル。子供とゴードン、そして観客たちだけがバットマンが<ダークナイト>ではなく、真のナイトなのだと知っているのがこの絶望的な狂気の世界を描いた作品の中に残された小さな希望。この希望が次回どう展開していくかが楽しみだが、ハードルが高すぎて次回作がどうなるか想像できなかったりして。

なお、この作品はスーパーヒーローものをリアルにとったらどうなるか?という『アンブレイカブル』で提示されたテーゼへの回答にもなっていると思う。つまり、スーパーヒーローものをリアルにすると、究極の犯罪映画になるのだ、というのがノーランの答えなのではなかろうか。オープニングの銀行強盗シーンにウィリアム・フィッチュナーを登場させてることから分かるとおり、この作品、明らかに『ヒート』を意識して作られているのだ。